我は海の子(唱歌)の歌詞の意味とは?戦後消えた幻の4〜7番・作者宮原晃一郎とモデルの海まで徹底解説

我は海の子 歌詞の意味とは サムネイル

夏が近づくと、どこからか聞こえてくる「我は海の子(われは海の子)」。海辺で生まれ育った少年の、日に焼けた逞しさをのびのびと歌い上げる唱歌です。運動会や海の日、卒業式などで一度は耳にした方も多いのではないでしょうか。

ところがこの歌には、あまり知られていない二つの「謎」があります。ひとつは、私たちが歌う1〜3番の先に、じつは4番から7番まで「消えた歌詞」が存在すること。もうひとつは、作詞者が長いあいだ「不詳」とされ、正体が明らかになったのが平成に入ってからだったことです。

この記事では、我は海の子の歌詞全文と意味を1番からていねいに読み解き、戦後に姿を消した幻の4〜7番、作者・宮原晃一郎の物語、そしてモデルとなった海までをまとめて解説します。

海の歌なのに、じつは「軍艦」まで出てくるんです。その理由をたどると、日本の近代史がまるごと見えてきますよ。

我は海の子(われは海の子)とはどんな唱歌?

「我は海の子」は、1910年(明治43年)7月に発行された『尋常小学読本唱歌』に載った文部省唱歌です。文部省唱歌なので、教科書には作詞者・作曲者ともに名前が記されず、長らく「作者不詳」として歌い継がれてきました。

歌の主人公は、海辺の小さな家で生まれ育った少年です。潮風を浴び、波の音を子守唄にして大きくなった子どもが、自分を育ててくれた海への誇りと愛着を、一人称の「我」で高らかに歌います。題名の「我は」も「われは」も同じで、漢字で書いた「我は海の子」がもともとの表記です。

2007年には文化庁と日本PTA全国協議会が選ぶ「日本の歌百選」にも選ばれ、世代を超えて親しまれる夏の定番曲となっています。まずは基本情報を整理しておきましょう。

発表 1910年(明治43年)『尋常小学読本唱歌』
分類 文部省唱歌
作詞 公式には不詳(宮原晃一郎の原詩とされる)
作曲 不詳
歌詞 全7番(現在は1〜3番のみ)
テーマ 海辺で育った少年の逞しさと海への誇り

「作者不詳」と教科書に書いてあるのに、じつはちゃんと作った人がいた。ここが最初のミステリーです。

我は海の子の歌詞【現在歌われる1〜3番】の全文と意味

白い波が砕ける磯辺の海岸 我は海の子の情景

まずは、いまも小学校で歌われる1番から3番までを見ていきましょう。海辺の情景を、視覚・嗅覚・聴覚と五感で描き込んでいるのがこの歌の魅力です。

一番
我は海の子白浪の
さわぐいそべの松原に
煙たなびくとまやこそ
我がなつかしき住家なれ

二番
生まれて潮に浴(あ)みして
浪を子守の歌と聞き
千里寄せくる海の気を
吸いてわらべとなりにけり

三番
高く鼻つくいその香に
不断の花のかおりあり
なぎさの松に吹く風を
いみじき楽(がく)と我は聞く

1番の意味「我がなつかしき住家なれ」

「白浪のさわぐいそべの松原」とは、白い波が砕ける磯辺の松林のことです。そこに「煙たなびくとまや」、つまり苫(菅や茅で編んだむしろ)で屋根を葺いた粗末な漁師小屋が建っています。

豪邸でも都会でもなく、その質素な小屋こそが「我がなつかしき住家」だと言い切るところに、海の子の自負がにじみます。貧しくとも海とともにある暮らしを恥じるどころか、誇りに感じているのです。

2番の意味「浪を子守の歌と聞き」

生まれてすぐ潮を浴び、波の音を子守唄がわりに聞いて育った、という2番。「千里寄せくる海の気を吸いてわらべとなりにけり」は、はるか沖から寄せてくる海の生気を吸い込んで一人前の子どもになった、という意味です。

海を、自分を育ててくれた母のように描いているのが印象的です。海は恐ろしい存在ではなく、揺りかごであり、栄養そのものとして歌われています。

3番の意味「不断の花のかおり」

磯の香りを「不断の花のかおり」だと感じ、渚の松を渡る風を「いみじき楽(すばらしい音楽)」だと聞く。3番は、都会の人なら「磯くさい」「潮風がうるさい」と嫌うかもしれないものを、すべて最高の香りと音楽に変えてしまう感性を歌います。

海の子にとって、海辺はそのまま五感の楽園なのです。ここまでの1〜3番で、歌はやわらかな叙情に満ちています。

ここまでは、のどかで美しい海の歌ですよね。ところが4番から、歌の色ががらりと変わっていきます。

戦後消えた「幻の4番〜7番」の歌詞と意味

じつは「我は海の子」は全部で7番まであります。4番以降は、いまの音楽の教科書には載っていません。海辺で育った子が、たくましい海の男へと成長していく後半を読んでみましょう。

四番
丈余(じょうよ)のろかい操りて
行手定めぬ浪まくら
百尋千尋(ももひろちひろ)の海の底
遊びなれたる庭広し

五番
幾年ここにきたえたる
鉄より堅きかいなあり
吹く塩風に黒みたる
はだは赤銅(しゃくどう)さながらに

六番
浪にただよう氷山も
来らば来れ恐れんや
海まき上ぐるたつまきも
起らば起れ驚かじ

七番
いで大船を乗出して
我は拾わん海の富
いで軍艦に乗組みて
我は護らん海の国

4番の意味「遊びなれたる庭広し」

「丈余のろかい」は、一丈(約3メートル)を超える長い櫓(ろ)と櫂(かい)のことです。それを操って行き先の定まらぬ波の上で眠り、百尋千尋(非常に深い)の海の底までが「遊びなれたる庭」だと歌います。

深く危険な海を、庭のように遊び慣れているという表現に、海と一体になった少年の成長ぶりが表れています。

5番の意味「鉄より堅きかいな」

何年もかけて鍛えた「鉄より堅きかいな(腕)」、塩風に焼かれて赤銅色になった肌。5番は、海での労働が生んだ逞しい肉体を誇らしく歌います。

ひ弱さとは無縁の、海の男そのものの姿です。1番の幼い子どもが、たくましい若者へと育ったことが伝わってきます。

6番の意味「来らば来れ恐れんや」

「浪にただよう氷山も来らば来れ、海まき上ぐるたつまきも起らば起れ」。氷山だろうと竜巻だろうと、来るなら来い、起こるなら起これ、恐れも驚きもしない、という気概の6番です。

自然の脅威を前にしても一歩も引かない。海の子の心の強さが頂点に達する場面です。

7番の意味「軍艦に乗組みて海の国を護らん」

そして最後の7番で、歌は一気に社会へと開かれます。「大船を乗出して我は拾わん海の富」、つまり大きな船で海の資源や富を得よう。さらに「軍艦に乗組みて我は護らん海の国」、軍艦に乗って海の国(日本)を護ろう、と結ばれます。

個人の成長物語だった歌が、最後に「海の国を護る」という国家の話へとつながっていく。この7番こそが、後に歌えなくなる決定的な理由になりました。

「軍艦に乗組みて」。子どもの唱歌にこの一節があった、と知ると少し驚きますよね。ここから戦後の話に入ります。

なぜ我は海の子の4番以降は消えたのか?GHQと戦後教育

4番以降が教科書から消えたのは、太平洋戦争の敗戦後のことです。日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)のもとで、軍艦や国防思想を思わせる歌詞が問題視されました。

とくに「軍艦に乗組みて我は護らん海の国」とうたう7番は、軍国主義的だとされます。こうした事情から、1947年(昭和22年)以降、小学校では1番から3番までしか教えられなくなりました。海辺の叙情を歌う前半だけが残り、成長と国防を歌う後半は静かに姿を消したのです。

じつは、同じように戦後に歌詞が削られた唱歌はほかにもあります。卒業式の定番「蛍の光」も、領土や国防をうたう3番・4番がいつの間にか歌われなくなりました。あわせて読むと、戦後教育が唱歌に何をしたのかがよく見えてきます。

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教科書の墨塗りや歌詞の削除は、この歌に限った話ではありません。時代が変われば、歌に求められるものも変わるんですね。

「我は海の子は軍歌だった」説の真相

ネット上では、この歌を「実は軍歌だった」と紹介する声を見かけます。7番に軍艦が出てくるのは事実なので、まったくの間違いとは言えません。ただし、この表現はやや誤解を招きます。

「我は海の子」は、そもそも1910年(明治43年)に作られた子どものための文部省唱歌です。軍歌として作曲・発表されたわけではありません。中心にあるのは、あくまで海辺で育った少年の逞しさと、海への愛着です。

4番以降、とりわけ7番に国防的な表現が入るのは、海洋国家として歩みはじめた明治末から大正の時代背景を色濃く映したものです。当時の唱歌には、こうした「立派な国民に育ってほしい」という願いがしばしば織り込まれていました。ですから「軍歌」と一言で断じるより、時代の空気をまとった唱歌、と受け止めるほうが正確でしょう。

時代背景メモ
明治から大正にかけて、日本は海に囲まれた「海洋国家」としての自覚を強めていました。唱歌は道徳や愛国心を育てる教材でもあり、海の子の成長物語が最後に「海の国を護る」へと結ばれるのは、当時としてはごく自然な発想だったのです。

我は海の子の作詞者・宮原晃一郎の謎

夕暮れの漁港に帰る漁船 海とともにある暮らし

文部省唱歌である「我は海の子」は、長らく作詞者も作曲者も不詳とされてきました。その作者の正体に光が当たったのは、1989年(平成元年)5月のことです。

宮原晃一郎(みやはら こういちろう)という人物の長女・典子さんが、「父が1908年(明治41年)に文部省の新体詩懸賞に応募した『海の子』という詩が、この歌のもとになった」と証言したのです。手元には、文部省からの入選通知と、著作権を譲ってほしいという要請の手紙が大切に保管されていました。応募作は佳作に当選し、翌1909年に国語読本へ、さらに1910年に唱歌へと採用されていきます。

宮原晃一郎は、1882年(明治15年)に鹿児島市加治屋町の旧薩摩藩士の家に生まれました。10歳ごろに北海道へ移り、のちに小樽新聞の記者となります。北欧文学の翻訳や児童文学でも知られる文筆家でした。近年の研究では、宮原の原詩をもとに、国文学者の芳賀矢一が唱歌向けに手を入れて改作した、という説がもっとも有力とされています。

自分の書いた詩が国民的な歌になったのに、名前は伏せられたまま。娘さんが手紙を守り続けていなければ、作者は今も謎のままだったかもしれません。

我は海の子のモデルとなった海はどこ?鹿児島・錦江湾

錦江湾と桜島 我は海の子のモデルとなった鹿児島の海

では、宮原晃一郎が思い描いた「海」はどこの海だったのでしょうか。モデルとされるのは、鹿児島市の錦江湾に面した天保山海岸だといわれます。少年時代の宮原が毎日のように通った、故郷の海です。

錦江湾は、雄大な桜島を抱く湾で、南北およそ80キロメートル、東西およそ20キロメートル、面積は約1130平方キロメートルにも及びます。噴煙をあげる火山と、穏やかな内海。1番の「煙たなびく」という一節を、桜島の噴煙と重ねて読む人もいるほど、この歌と鹿児島の海の相性はよいのです。

ちなみに宮原が生まれた加治屋町は、西郷隆盛や大久保利通、東郷平八郎、大山巌など、幕末から明治にかけて活躍した偉人を数多く輩出した町としても知られています。海の子を生んだ土地が、近代日本を動かした人々のふるさとでもあった、というのは興味深い縁です。

桜島の見える海で育った少年が、日本中の子どもが歌う「海の歌」を書いた。そう思うと、あの雄大な景色がぐっと近く感じられます。

我は海の子の文語(古語)をやさしく解説

この歌には、いまでは耳慣れない文語(古語)がいくつも出てきます。意味がわかると、歌詞の情景が一気に鮮明になります。主なことばをまとめました。

  • 白浪(しらなみ)=白く砕け散る波。
  • いそべ(磯辺)=岩の多い海辺。
  • とまや(苫屋)=苫で屋根を葺いた粗末な小屋。漁師の質素な家。
  • 不断(ふだん)の花=一年じゅう絶え間なく咲く花。「普段」ではなく「絶え間ない」の意。
  • いみじき楽(がく)=すばらしい音楽。
  • 丈余(じょうよ)のろかい=一丈(約3メートル)を超える長い櫓(ろ)と櫂(かい)。舟をこぐ道具。
  • 浪まくら(波枕)=波の上で眠ること。船旅の枕。
  • 百尋千尋(ももひろちひろ)=尋は水深をはかる単位。とても深い海のたとえ。
  • かいな(腕)=うで。
  • 赤銅(しゃくどう)=赤黒い銅の色。よく日に焼けた肌のたとえ。

「不断の花」を「普段の花」と取り違えると意味が通じません。古語をひとつずつ確かめると、海の子が見ていた世界がくっきりと立ち上がってきます。

我は海の子についてよくある質問(Q&A)

Q. 我は海の子は何番まであるの?

もともとは全7番あります。ただし戦後の1947年以降、小学校で教えられるのは1番から3番までです。4番以降は「幻の歌詞」として、いまではほとんど歌われません。

Q. なぜ4番以降を歌わないの?

敗戦後、GHQ(連合国軍総司令部)のもとで、軍艦や国防思想を思わせる歌詞が問題視されたためです。とくに7番の「軍艦に乗組みて我は護らん海の国」が軍国主義的だとされ、教科書から外されました。

Q. 作詞者は誰なの?

文部省唱歌なので公式には不詳ですが、鹿児島出身の文筆家・宮原晃一郎の原詩がもとになったとされます。1989年に長女の証言で判明しました。近年は、その原詩を芳賀矢一が改作したとする説が有力です。

Q. モデルになった海はどこ?

鹿児島市の錦江湾に面した天保山海岸が、モデルとされています。作詞者・宮原晃一郎が少年時代を過ごした、桜島の見える故郷の海です。

Q. 「不断の花」ってどういう意味?

一年じゅう絶え間なく咲く花のことです。磯の香りを、そんな花の香りのようだと表現しています。「普段の花」ではないので注意しましょう。

まとめ

「我は海の子」は、海辺で育った少年の逞しさと海への誇りを歌った文部省唱歌です。いま歌う1〜3番は、潮風や波の音、磯の香りを五感でとらえた、のどかで美しい海の叙情に満ちています。

その先に続く4〜7番は、戦後に姿を消した幻の歌詞でした。海の男へと成長し、やがて「海の国を護らん」とうたう後半は、海洋国家をめざした時代の空気と、占領下の教育のはざまで歌われなくなったのです。

作者は長らく不詳とされ、鹿児島出身の宮原晃一郎の原詩だと分かったのは平成に入ってから。モデルとなったのは、桜島を抱く錦江湾の海でした。

いつもの3番までの歌詞の背景を知ると、この夏の唱歌がぐっと奥行きをもって響いてきます。海を見る機会があれば、消えた4番以降の情景も、そっと思い浮かべてみてください。

何気なく歌ってきた一曲に、これだけの物語が隠れていました。歌詞の裏側を知ると、いつもの歌がもっと好きになりますね。

海にまつわる童謡や、戦後に歌詞が変わった唱歌については、こちらの記事もあわせてどうぞ。

作者やモデルの海について、さらにくわしく知りたい方は以下の資料が参考になります。