「汽笛一声(きてきいっせい)新橋を、はや我が汽車は離れたり」。この歌い出しを聞くと、思わず続きを口ずさんでしまう方も多いのではないでしょうか。
明治時代から歌い継がれてきた「鉄道唱歌(てつどうしょうか)」は、汽車に乗って日本各地の駅や名所をめぐる、いわば歌でできた旅行ガイドです。ところがその歌詞をじっくり読むと、単なる駅名の羅列ではなく、歴史や地理、当時の日本の風景がぎっしり詰め込まれていることに気づきます。
この記事では、鉄道唱歌の歌詞の意味を第1番から読み解きながら、全5集334番におよぶ壮大な全体像、「地理教育」という作られた目的、作詞者・大和田建樹(おおわだたけき)の人物像、そして空前の大ヒットとなった歴史までをまとめて解説します。

目次
鉄道唱歌とは?「汽笛一声新橋を」で始まる明治の地理教育唱歌
鉄道唱歌は、1900年(明治33年)5月に発表された唱歌です。作詞は国文学者の大和田建樹、作曲は多梅稚(おおのうめわか)らが手がけました。正式なタイトルは「地理教育鉄道唱歌」といいます。
内容は、汽車に乗って新橋(現在の東京)を出発し、東海道の駅や沿線の名所・旧跡を次々に歌いながら西へ向かうというもの。開通して間もない鉄道に実際に乗っているような気分で、日本の地理と歴史が自然に頭に入るように作られています。
「唱歌」とは、明治から昭和にかけて学校で歌うために作られた歌のこと。鉄道唱歌はそのなかでも群を抜いて有名で、日本人なら一度は「汽笛一声新橋を」のフレーズを耳にしたことがあるはずです。
鉄道唱歌の歌詞の意味を第1番から読み解く【東海道編】

まずは、もっとも有名な東海道編(第1集)の冒頭を、歌詞の意味とともに見ていきましょう。歴史ある歌なので、旧仮名づかいのまま紹介します。
第1番「汽笛一声新橋を」の意味
汽笛一声新橋を
はや我が汽車は離れたり
愛宕(あたご)の山に入りのこる
月を旅路の友として
汽笛がひと声鳴り響き、列車はもう新橋の駅を出発しました。「一声」は「いっせい」と読み、汽笛がひと鳴りする様子を表します。愛宕山(現在の東京都港区にある山)の上に沈み残る明け方の月を旅の道連れにして、汽車は走り出す。夜明けの出発シーンから壮大な旅が始まるという、名歌い出しです。
第2番「右は高輪泉岳寺」の意味
右は高輪(たかなわ)泉岳寺(せんがくじ)
四十七士(しじゅうしちし)の墓どころ
雪は消えても消えのこる
名は千載(せんざい)の後(のち)までも
進行方向の右手に見えるのは、高輪にある泉岳寺。ここは忠臣蔵で知られる赤穂浪士(あこうろうし)四十七士のお墓がある寺です。雪は溶けて消えても、主君の仇を討った彼らの名は千年の後まで消えずに残る。単に地名を挙げるだけでなく、その土地にまつわる歴史物語をひと息で織り込んでいるのが、鉄道唱歌の巧みなところです。
第3番「窓より近く品川の」の意味
窓より近く品川(しながわ)の
台場(だいば)も見えて波白く
海のあなたにうすがすむ
山は上総(かずさ)か房州(ぼうしゅう)か
車窓の近くには品川の台場が見えます。台場とは幕末に江戸湾の防衛のために築かれた砲台のことで、現在の「お台場」という地名の由来にもなっています。白い波の向こう、海のかなたにかすんで見える山は、上総(千葉県中部)だろうか、それとも房州(千葉県南部)だろうか。列車の速さと車窓から広がる海の風景が、みずみずしく描かれています。
第4番からは鶴見・神奈川を過ぎて横浜に到着し、そこからさらに西へ進みます。国府津(こうづ)、小田原、箱根の山、沼津、静岡、浜名湖、豊橋、名古屋、岐阜、米原、京都、大阪を経て、第66番でついに終着の神戸に到着します。1曲のなかで東海道をまるごと走破してしまうスケールの大きさこそ、鉄道唱歌最大の魅力です。

鉄道唱歌は全5集334番におよぶ壮大な旅の歌

東海道の海沿いを走る蒸気機関車を描いた明治の錦絵です。歌詞の第2番に登場する高輪のあたりは、当時こうした鉄道の名所でもありました。私たちがよく知る「汽笛一声新橋を」は、実は鉄道唱歌のほんの入り口にすぎません。鉄道唱歌には全部で5つの集(シリーズ)があり、合計するとなんと334番にもなります。
- 第1集 東海道編(全66番)新橋から神戸まで
- 第2集 山陽・九州編(全68番)神戸から九州へ
- 第3集 奥州・磐城編(全64番)東北・常磐方面
- 第4集 北陸編(全72番)日本海側
- 第5集 関西・参宮・南海編(全64番)近畿・伊勢・紀州方面
これらをすべて歌うと、当時の日本の主要な鉄道網をほぼ一周することになります。作曲も多梅稚のほか複数の音楽家が関わりましたが、いちばん親しまれているのは、やはり最初に発表された第1集の東海道編です。「汽笛一声新橋を」があまりに有名になったため、鉄道唱歌といえば東海道編を指すのが一般的になりました。
なぜ「地理教育」鉄道唱歌が作られたのか
鉄道唱歌の正式名称は「地理教育鉄道唱歌」。この「地理教育」という言葉に、この歌が作られた狙いが表れています。目的は、汽車の旅を通じて日本各地の地名や名所を、子どもたちに楽しく覚えてもらうことでした。
明治時代は文明開化のまっただ中で、鉄道網が急速に広がっていった時期です。新しい交通手段である鉄道は、当時の人々にとって近代化の象徴でもありました。その鉄道に沿って地名や歴史を歌にすれば、退屈な暗記も歌いながら自然に身につきます。メロディに乗せると記憶に残りやすいという、歌ならではの学習効果を活かした教材だったわけです。
実際に鉄道唱歌は学校だけでなく家庭でも親しまれ、遊びながら日本地理を覚えられる歌として広く受け入れられました。今でいえば、覚え歌や語呂合わせの元祖のような存在といえるかもしれません。
作詞・大和田建樹はどんな人物だったのか
鉄道唱歌の歌詞を書いた大和田建樹(1857〜1910)は、伊予国宇和島(現在の愛媛県宇和島市)に生まれた国文学者・歌人・詩人です。東京高等師範学校の教授や、東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師などを務めた学者でもありました。
大和田はとにかく多作な人で、生涯にわたって膨大な数の詞や著作を残しました。鉄道唱歌のほかにも、スコットランド民謡に日本語詞をつけた「故郷の空」や、平敦盛と平忠度をうたった「青葉の笛」など、今も歌い継がれる唱歌を手がけています。
334番にもおよぶ鉄道唱歌の歌詞を、全国の駅や名所を調べ上げながら作り上げたことからも、その旺盛な創作力がうかがえます。地名や歴史を七五調のリズムにぴたりと収める言葉の職人技は、国文学者ならではのものといえるでしょう。
同じ明治の時代に生まれた唱歌には、作詞と作曲でイメージした風景が食い違う名曲もあります。歌の背景を掘り下げたい方は、以下の記事もあわせてどうぞ。
鉄道唱歌のメロディと空前の大ヒット

鉄道唱歌のメロディには、実は2つのバージョンがありました。多梅稚が作曲したものと、上真行(うえさねゆき)が作曲したものが同時に発表されたのです。このうち、軽快で覚えやすく、現在まで広く歌い継がれているのは多梅稚の作曲版です。今「鉄道唱歌のメロディ」といって多くの人が思い浮かべるのは、この多梅稚版です。
発売元は、大阪の楽器商・三木佐助(開成館)でした。三木佐助は少年音楽隊を組織し、街頭で鉄道唱歌を演奏させて宣伝したと伝えられています。この宣伝も功を奏し、鉄道唱歌は当時としては異例の大ヒットを記録しました。日本の出版・流行歌の歴史のなかでも、初期を代表するベストセラーのひとつに数えられています。

今も生きている鉄道唱歌(発車メロディ・替え歌)
鉄道唱歌は昔の歌というだけでなく、今も私たちの身近なところで生きています。たとえばJR豊橋駅などでは、鉄道唱歌のメロディが列車の発車メロディとして使われています。ホームでふと耳にした音楽が、実は120年以上前の唱歌だったというわけです。
また、覚えやすいメロディゆえに数多くの替え歌が生まれ、路面電車の名所をうたった「電車唱歌」など、鉄道唱歌に続く一連の作品も作られました。地名や物事を順番に覚えるための替え歌の土台として、鉄道唱歌のメロディは長く重宝されてきたのです。
鉄道唱歌についてよくある質問
Q. 鉄道唱歌は全部で何番ありますか?
全5集で合計334番です。第1集の東海道編だけでも66番あり、私たちがよく知る「汽笛一声新橋を」はその第1番にあたります。
Q.「汽笛一声」は何と読みますか?
「きてきいっせい」と読みます。汽車の汽笛がひと声鳴る、という意味です。
Q. 鉄道唱歌の作曲者は誰ですか?
多梅稚(おおのうめわか)と上真行(うえさねゆき)の2人が別々に作曲し、同時に発表されました。現在まで広く歌われているのは多梅稚版です。
Q. 鉄道唱歌はどこで聞けますか?
JR豊橋駅の発車メロディなどで、今も日常的に鉄道唱歌のメロディを聞くことができます。
まとめ:鉄道唱歌は歌で旅する明治の日本
鉄道唱歌は、「汽笛一声新橋を」の歌い出しで始まる、東海道の駅と名所をめぐる唱歌です。歌詞には泉岳寺の四十七士や品川の台場など、その土地の歴史や風景が巧みに織り込まれています。
全5集334番という規模で日本中の鉄道網をうたい、「地理教育」という明確な目的のもとに作られました。作詞は多作な国文学者・大和田建樹、作曲は多梅稚。少年音楽隊の街頭宣伝もあって、空前の大ヒットとなりました。
発表から120年以上たった今も、発車メロディや替え歌としてそのメロディは生き続けています。次に「汽笛一声新橋を」を耳にしたときは、歌詞の一つひとつに込められた地名と歴史を思い浮かべながら口ずさんでみてください。歌の旅が、いっそう味わい深いものになるはずです。


