しゃぼん玉(童謡)の歌詞の意味とは?亡くなった娘の鎮魂歌説の真相・野口雨情の由来まで徹底解説

「しゃぼん玉飛んだ 屋根まで飛んだ」。だれもが一度は口ずさんだことのある童謡「しゃぼん玉」。やさしいメロディにのせて、しゃぼん玉がふわりと舞う情景が目に浮かぶ、日本を代表する子どもの歌です。

ところが、この歌の2番には「生まれてすぐに こわれて消えた」という、はっとするほど切ない一節があります。ここから「しゃぼん玉は、幼くして亡くなった我が子への鎮魂歌なのではないか」という説が広まり、「実は怖い童謡」「悲しすぎる歌」として語られることも少なくありません。

でも、その説は本当なのでしょうか。じつは、作詞した野口雨情自身は、この歌について多くを語っていません。鎮魂歌説には有力な根拠がある一方で、時期が合わないなどの疑問も指摘されています。

この記事では、「しゃぼん玉」の1番・2番の歌詞と意味、話題になる鎮魂歌説の真相、今はほとんど歌われない3番・4番、そして作詞・野口雨情や「シャボン」の語源まで、まるごと徹底解説します。

明るいメロディの裏に、こんなに深い物語が隠れていたなんて。いっしょに「しゃぼん玉」の謎をのぞいていきましょう。

しゃぼん玉(童謡)の歌詞|1番・2番の全文と意味

ふわりと舞う大きなしゃぼん玉

まずは、歌詞をあらためて確認してみましょう。「しゃぼん玉」は、作詞・野口雨情(のぐち うじょう)、作曲・中山晋平(なかやま しんぺい)による童謡です。詞は大正11年(1922年)に発表され、翌大正12年(1923年)に中山晋平が曲をつけました。

歌われるのは、次の1番・2番と、最後にくり返される「風、風、吹くな」の部分です。

【1番】
しゃぼん玉飛んだ
屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで
こわれて消えた

【2番】
しゃぼん玉消えた
飛ばずに消えた
生まれてすぐに
こわれて消えた

風、風、吹くな
しゃぼん玉飛ばそ

1番の意味|屋根まで飛んで、こわれて消えた

1番は、吹いたしゃぼん玉が高く高く、屋根の上まで舞い上がっていく場面です。ところが、せっかく屋根まで飛んだしゃぼん玉は、そこで「こわれて消えた」。うまく飛べたのに、あっけなく割れてしまいます。しゃぼん玉のはかなさが、そのまま描かれた一節です。

2番の意味|生まれてすぐに、こわれて消えた

2番は、さらに切なくなります。今度のしゃぼん玉は、飛ぶことすらできませんでした。「生まれてすぐに こわれて消えた」。ストローの先で生まれた、その瞬間に、ふっと割れてしまったしゃぼん玉です。

最後の「風、風、吹くな しゃぼん玉飛ばそ」は、「風よ、吹かないでおくれ。しゃぼん玉を飛ばしてあげたいから」という願いの言葉です。壊れやすいしゃぼん玉を、なんとか飛ばしてやりたい。そんなやさしいまなざしで、歌は締めくくられます。

「生まれてすぐに こわれて消えた」。子ども向けの歌なのに、この一行だけ、妙に胸に刺さるんですよね。

「鎮魂歌」?亡くなった娘の死をめぐる悲しい説

しゃぼん玉で遊ぶ子どもたちを描いた古い銅版画

この「生まれてすぐに こわれて消えた」という一節から、「しゃぼん玉は、幼くして亡くなった子どもへの鎮魂歌ではないか」という説が生まれました。ネット上で「実は怖い」「悲しすぎる」と紹介されるのは、たいていこの解釈です。

広く知られる「亡き我が子への鎮魂歌」説

もっとも有名なのが、作詞した野口雨情が、亡くした我が子への思いを込めたとする説です。雨情には、明治41年(1908年)に生まれた長女みどりがいましたが、生後わずか7日ほどでこの世を去っています。雨情はこの娘の死を、長く悔やみ続けたと伝えられています。

「生まれてすぐにこわれて消えた」しゃぼん玉は、生まれてまもなく亡くなった娘の姿そのもの。そう重ねて読むと、この歌はたしかに深い悲しみをたたえた鎮魂歌に見えてきます。

徳島で娘を亡くしたとする説もある

別の説もあります。音楽評論家の長田暁二(おさだ ぎょうじ)は、著書のなかで、雨情が四国・徳島への旅の途中で2歳の娘を亡くし、その鎮魂として書いたとしています。

ただし、この説には後で触れるように反論もあり、どの娘のことなのか、そもそも特定の娘を指しているのかは、はっきりしていません。

同じ歌でも、作者の人生を知ると聞こえ方が変わります。だからこそ「本当のところはどうなの?」が、よけいに気になってしまいますよね。

しゃぼん玉の鎮魂歌説は本当?真相をめぐる3つの疑問

胸を打つ鎮魂歌説ですが、じつは「本当にそうなのか」と首をかしげる声も少なくありません。落ち着いて見ていくと、いくつかの疑問が浮かび上がってきます。

疑問1|娘の死と発表時期が10年以上ずれている

最大の疑問は、時期のずれです。長女みどりが亡くなったのは明治41年(1908年)。いっぽう「しゃぼん玉」の詞が発表されたのは大正11年(1922年)で、娘の死からじつに14年も後のことになります。悲しみの直後に、一気に書き上げた歌というわけではないのです。

徳島で2歳の娘を亡くしたとする説についても、「その年に亡くなった雨情の子どもは記録上見当たらない」という指摘があります。事実関係があいまいなまま、語り継がれてきた面があるのです。

疑問2|雨情自身は理由を語っていない

もうひとつ大きいのが、作者本人の証言がないことです。野口雨情は、この歌を子どもの死と結びつけて説明した文章を、一切残していません。鎮魂歌説は、あくまで後の人たちが、歌詞と雨情の境遇から「そうではないか」と推測したもの。作者公認の解釈ではないのです。

疑問3|初出は仏教の児童雑誌だった

近年注目されているのが、「しゃぼん玉」の初出が『金の塔』という仏教系の児童雑誌だった、という事実です。ここから、はかなく消えるしゃぼん玉に仏教的な死生観(この世は無常であるという考え方)を重ね、仏教の関係者が「命のはかなさを歌った歌」として広めていった、という見方も出てきています。

つまり「悲しい鎮魂歌」というイメージそのものが、発表後に少しずつ育っていった可能性もある、というわけです。

記念館も「解釈のひとつ」として紹介している

雨情の故郷・茨城県北茨城市にある野口雨情記念館(歴史民俗資料館)も、鎮魂歌説を「そういわれている」という慎重な言い回しで紹介しています。発表当時は、しゃぼん玉遊びに興じる子どもの無邪気な様子を題材にした歌、とも説明されており、ひとつの正解に決めつけてはいません。

ここがポイント
「しゃぼん玉=亡くなった子への鎮魂歌」という説は広く知られていますが、それを裏づける決定的な証拠はなく、雨情本人も理由を語っていません。感動的な物語として味わいつつ、「確定した事実ではない」ことは知っておきたいところです。

歌詞の意味に諸説あり、「怖い」「悲しい」と語られる童謡は、ほかにもあります。たとえば「通りゃんせ」も、その代表格です。

悲しい物語として歌うのも自由です。でも「それが唯一の答えではない」と知っておくと、歌の見え方に奥行きが出ますよね。

今はほとんど歌われない幻の3番・4番の歌詞

私たちがふだん歌う「しゃぼん玉」は1番・2番だけですが、じつは野口雨情は、昭和11年(1936年)に3番・4番を書き加えたと伝えられています。

一説には、次のような詞だとされます。

【3番】
しゃぼん玉とんだ 屋根よりたかく
ふうわりふわり つづいてとんだ

【4番】
しゃぼん玉いいな お空にあがる
あがっていって かえってこない

1番・2番の切なさとくらべると、3番・4番は、しゃぼん玉が空高く飛んでいく、どこか明るく開放的な内容です。「かえってこない」という結びには、やはり少しの寂しさもありますが、全体としては前向きな余韻を残します。

なぜ3番・4番は歌われないのか

この3番・4番は、中山晋平のメロディにうまく乗せられなかったこともあり、広く歌われることはありませんでした。楽譜や歌の教科書にもほとんど載らず、今では「幻の歌詞」のような存在になっています。

そのため「しゃぼん玉」といえば1番・2番、という形ですっかり定着しました。3番・4番があることを知っている人は、今ではかなりの少数派でしょう。

しゃぼん玉の由来|作詞・野口雨情と大正の童謡運動

野口雨情の生家(茨城県北茨城市磯原)

「しゃぼん玉」の世界をより深く味わうために、作詞した野口雨情という人物と、この歌が生まれた時代背景も見ておきましょう。

野口雨情|童謡界の三大詩人のひとり

野口雨情(1882〜1945年)は、茨城県の磯原(現在の北茨城市)に生まれた詩人・作詞家です。北原白秋、西条八十(さいじょう やそ)とともに「童謡界の三大詩人」と称される、大正・昭和を代表する存在でした。

代表作は「しゃぼん玉」のほか、「七つの子」「赤い靴」「青い眼の人形」「あの町この町」「証城寺の狸囃子」など。今も歌い継がれる童謡を、数えきれないほど残しています。

作曲・中山晋平とのゴールデンコンビ

「しゃぼん玉」に曲をつけた中山晋平(1887〜1952年)は、長野県出身の作曲家です。「てるてる坊主」「証城寺の狸囃子」「あの町この町」など、こちらも童謡の名曲を数多く手がけました。

野口雨情と中山晋平は、いくつもの童謡を共作した名コンビでした。雨情の情感あふれる詞に、晋平の親しみやすい旋律が重なって、心に残る歌が次々と生まれたのです。「しゃぼん玉」も、その代表的な一曲でした。

「しゃぼん玉」を生んだ大正の童謡運動

「しゃぼん玉」が作られた大正時代は、日本で「童謡」というジャンルが花開いた時期でした。それまでの学校唱歌が、教訓的で少し堅苦しいものだったのに対し、子どもの素直な気持ちに寄り添う、芸術性の高い歌を作ろうという動きが起こったのです。

鈴木三重吉の雑誌『赤い鳥』で北原白秋が活躍したのに対し、野口雨情は雑誌『金の船』などを舞台に、数多くの童謡を発表しました。「しゃぼん玉」も、こうした大正の童謡運動のなかから生まれた、時代の申し子といえる歌なのです。

何気なく歌ってきた童謡が、じつは日本の文化史に残る大きな運動の一部だったとは。背景を知ると、歌がぐっと味わい深くなります。

「シャボン玉」の語源はポルトガル語だった

ところで、「シャボン玉」の「シャボン」とは、そもそも何のことなのでしょうか。

「シャボン」は、石けんを意味するポルトガル語「サボン(sabão)」が語源とされています。16世紀の末、ポルトガルの宣教師や商人によって石けんが日本に伝わり、その呼び名も一緒に広まりました。今でも石けんを「シャボン」と呼ぶことがあるのは、この名残です。

石けん水を使ったしゃぼん玉遊びは、明治から大正にかけて、石けんが一般の家庭に広まるとともに、子どもたちのあいだに定着していきました。「しゃぼん玉」が作られた大正時代は、ちょうどしゃぼん玉遊びが身近になった頃でもあったのです。

豆知識
「シャボン」はポルトガル語由来ですが、英語では soap(ソープ)。同じ石けんでも、日本には南蛮貿易を通じて、ポルトガル語の呼び名が入ってきました。「シャボン玉」というひとことに、日本と西洋の交流の歴史が刻まれているのですね。

童謡「しゃぼん玉」のよくある質問

しゃぼん玉は本当に亡くなった子どもの鎮魂歌ですか?

「鎮魂歌である」と断定できる証拠はありません。作詞した野口雨情自身が理由を語っておらず、娘の死と発表時期が10年以上ずれているなどの疑問もあります。有力な説のひとつではありますが、確定した事実ではない、というのが実際のところです。

しゃぼん玉に3番・4番はありますか?

昭和11年(1936年)に野口雨情が3番・4番を書き加えたと伝えられています。ただし中山晋平のメロディにはほとんど乗せられず、現在では1番・2番だけが歌われています。

しゃぼん玉はいつ、だれが作った歌ですか?

詞は大正11年(1922年)に野口雨情が発表し、翌大正12年(1923年)に中山晋平が曲をつけました。今からおよそ100年前に生まれた童謡です。

「シャボン」とはどういう意味ですか?

石けんを意味するポルトガル語「サボン(sabão)」が語源です。16世紀末に、石けんとともに日本へ伝わった言葉とされています。

「風、風、吹くな しゃぼん玉飛ばそ」の意味は?

「風よ、吹かないでおくれ。しゃぼん玉を飛ばしてあげたいから」という意味です。壊れやすいしゃぼん玉を、なんとか飛ばしてやりたいという、やさしい気持ちが込められています。

まとめ|歌に込められた本当の意味

童謡「しゃぼん玉」は、大正11年(1922年)に野口雨情が作詞し、中山晋平が曲をつけた歌です。しゃぼん玉が飛んで、こわれて消えるまでを、やさしくもはかなく描いています。

「生まれてすぐにこわれて消えた」という一節から、「亡くなった我が子への鎮魂歌」という説が広く知られています。ただし、それを裏づける決定的な証拠はなく、雨情本人も理由を語っていません。語り継がれてきた解釈のひとつ、と受け止めておくのがよさそうです。

いっぽうで、昭和11年に書き加えられたという明るい3番・4番の存在や、「シャボン」がポルトガル語由来であることなど、知られざる一面もたくさんあります。

意味を知ったうえで、もう一度この歌を口ずさんでみてください。子どもの頃とは、また少し違った景色が見えてくるはずです。

はかなく消えるしゃぼん玉に、これだけの物語が詰まっている。童謡って、やっぱり奥が深いですね。