「この道はいつか来た道」で始まる童謡「この道」は、一度聴いたら忘れられない、どこか懐かしい旋律を持った名曲です。北原白秋(きたはらはくしゅう)が詩を書き、山田耕筰(やまだこうさく)が曲をつけた、日本を代表する童謡のひとつです。
ところが、あらためて歌詞を読むと、いくつも不思議な点が浮かんできます。「いつか来た道」とは、いったいどの道のことなのでしょうか。「白い時計台」や「あかしやの花」は、どこの風景なのでしょう。そして「お母さまと馬車で行ったよ」の母とは、誰のことなのでしょうか。
この記事では、「この道」の歌詞全文と意味を一番から四番まで丁寧に読み解きながら、実は北海道と熊本という二つの土地が舞台になっていること、白秋自身の人生が色濃く映し出されていることまで、徹底的に解説していきます。

目次
「この道」とはどんな童謡?北原白秋と山田耕筰が生んだ名曲

「この道」は、詩人・北原白秋が作詞し、作曲家・山田耕筰が曲をつけた童謡です。詩は1926年(大正15年)、児童雑誌『赤い鳥』に発表されました。その翌年の1927年(昭和2年)に山田耕筰が曲をつけ、歌として世に広まりました。
白秋と耕筰は、当時の日本を代表する作詞家と作曲家でした。二人は1921年(大正10年)に雑誌『詩と音楽』を創刊してからの長い盟友で、白秋は耕筰との関係を「性格はまるで違うのに、天が配ってくれた太鼓と撥(ばち)のような、変わることのない仲の良さ」と語ったと伝えられています。二十年以上にわたって数々の名曲を生み出した、まさに黄金コンビでした。
「この道」は全部で四番まであり、ゆったりとした三拍子を基本にしながら、ところどころに二拍子をまじえた、やわらかく揺れるような旋律が特徴です。2007年には文化庁と日本PTA全国協議会が選んだ「日本の歌百選」にも選ばれ、世代を超えて歌い継がれる国民的な一曲となっています。
そしてこの歌の最大の魅力であり、多くの人が意味をつかみきれずにいるのが、歌詞に描かれた「懐かしい風景」の正体です。順番に見ていきましょう。
「この道」の歌詞全文(一番〜四番)
まずは歌詞の全文を確認します。短い言葉のくり返しでできているのに、不思議な奥行きを感じさせる構成です。
【一番】
この道は いつか来た道
ああ そうだよ
あかしやの花が 咲いてる
【二番】
あの丘は いつか見た丘
ああ そうだよ
ほら 白い時計台だよ
【三番】
この道は いつか来た道
ああ そうだよ
お母さまと 馬車で行ったよ
【四番】
あの雲も いつか見た雲
ああ そうだよ
山査子(さんざし)の 枝も垂れてる
「この道は」「あの丘は」「あの雲も」と、目に映るものを次々に指さしながら、「いつか来た」「いつか見た」と過去の記憶を重ねていく。この静かなくり返しが、歌全体に深い郷愁(きょうしゅう)を漂わせています。

「この道」一番・二番の歌詞の意味|北海道・札幌の情景

まず知っておきたいのは、一番と二番の舞台が北海道の札幌だということです。これは白秋自身が後年、「北海道風景です。主人公は男の子です」と注釈を残していることからも裏づけられています。
白秋は1925年(大正14年)の夏、鉄道省が企画した樺太(からふと)観察の旅に参加し、横浜を出港して北海道の小樽や札幌を訪れました。四十歳のときの旅です。このとき目にした札幌の風景が、そのまま一番・二番に描かれています。
あかしやの花が咲いてる……ここでいう「あかしや」は、正確にはニセアカシア(別名ハリエンジュ)という北米原産の木です。明治以降、札幌をはじめ北海道の街路樹として広く植えられ、五月ごろに白い房(ふさ)のような花を咲かせます。甘い香りを放つこの白い花並木は、札幌の初夏を象徴する風景でした。
ほら 白い時計台だよ……二番に登場する「白い時計台」は、いうまでもなく札幌の時計台(旧札幌農学校演武場)です。1878年(明治11年)に建てられた白い洋風建築で、現在も札幌のシンボルとして親しまれています。「あの丘は いつか見た丘」と歌い出し、その丘の先に白い時計台を見つける流れは、旅の記憶をたどるようなわくわく感にあふれています。
一番と二番をまとめると、「見覚えのある道を歩いていくと、白いあかしやの花が咲いていて、丘の向こうには白い時計台が見える」という、初夏の札幌をいきいきと描いた情景になります。白を基調とした、清らかで明るい北国の風景です。

「この道」三番・四番の歌詞の意味|母と通った柳川への帰り道

三番・四番になると、舞台ががらりと変わります。ここで描かれるのは北海道ではなく、白秋の故郷・九州の風景だと考えられています。ポイントは三番の「お母さまと 馬車で行ったよ」という一行です。
北原白秋は1885年(明治18年)、母の実家である熊本県南関町(なんかんまち)で生まれ、まもなく父の家がある福岡県の柳川(やながわ)に戻って育ちました。母の里である南関から、白秋が育った柳川までの道は、彼にとって特別な意味を持つ道でした。帰省のたびにこの道を通るのが、この上ない楽しみだったと伝えられています。
お母さまと 馬車で行ったよ……幼い日に、母に連れられて馬車でこの道を通った記憶です。北海道の旅の情景から一転して、こんどは自分の幼年時代のいちばん温かい思い出へと、記憶がさかのぼっていきます。
山査子(さんざし)の 枝も垂れてる……「山査子」はバラ科の落葉低木で、英語ではホーソーンと呼ばれます。もともと中国原産で、江戸時代に薬用として日本へ伝わりました。春には白やうす紅の小さな花を咲かせ、秋には赤い実をつけます。その枝がしなだれている様子に、母と通った道の記憶が重ねられています。
つまりこの歌は、一番・二番で大人になってからの北海道の旅を、三番・四番で幼い日の故郷の道を描く、二つの土地・二つの時間が織り重なった構成になっているのです。ここに気づくと、「この道」がぐっと立体的に見えてきます。
「いつか来た道」に込められた意味とは?既視感と人生の回想
この歌のいちばんの謎は、くり返し出てくる「いつか来た道」「いつか見た丘」「いつか見た雲」というフレーズです。これは具体的にどの道を指しているのでしょうか。
いちばん素直な読み方は、白秋が実際に「かつて通ったことのある道」をふたたび歩いている、という解釈です。北海道の旅先で見た並木道、あるいは幼い日に母と通った故郷の道。どちらも、白秋にとっては現実に「いつか来た道」でした。
けれども、この歌が多くの人の胸を打つのは、それだけではありません。初めて訪れた場所なのに、なぜか「前にもここに来たことがある」と感じる。そんな不思議な感覚を、誰しも一度は味わったことがあるはずです。いわゆる既視感(デジャヴ)です。「いつか来た道」という言葉は、そうした説明のつかない懐かしさまでも、そっとすくい取っています。
白秋は「主人公は男の子です」と記しました。大人になった白秋が、少年の目にもどって過ぎ去った風景を見つめ直している、と読むこともできます。北海道の旅で呼び覚まされた郷愁が、いつしか幼い日の母との記憶とひとつに溶け合っていく。「この道」は、特定の一本の道の歌であると同時に、誰の心の中にもある「懐かしい風景」そのものを歌った、人生回想の歌でもあるのです。

なぜ北海道と熊本?「この道」二つの舞台がひとつになる理由
「一番・二番は北海道、三番・四番は九州」と聞くと、ばらばらな風景をつなげただけのように感じるかもしれません。けれども、二つの舞台は決して無関係ではありません。
きっかけは、1925年の北海道への旅でした。四十歳の白秋が北国の見知らぬ道を歩いていると、白いあかしやの花や、丘の上の時計台が目に入ります。その清らかな風景が、遠い日に母と通った故郷の道の記憶を呼び覚ましたのだと考えられます。目の前の北海道の風景と、心の奥にしまってあった幼年時代の風景が、「懐かしさ」という一本の糸でつながったのです。
だからこそ、この歌は土地の説明で終わりません。北海道の実景から入り、それをきっかけに記憶が故郷へ、母へとさかのぼっていく。風景の歌が、いつのまにか人生と家族への思いを歌う歌に変わっている。二つの舞台がひとつに溶け合うところに、「この道」の深さがあります。
特定の一か所を写生したのではなく、白秋の心の中で結びついた複数の風景を、一編の詩に凝縮している。だからこそ、北海道を知らない人も、柳川を知らない人も、それぞれが自分の「いつか来た道」を思い浮かべながら歌うことができるのです。
「あかしや」と「山査子」とは?歌詞に出てくる植物をやさしく解説
「この道」には、あまり聞き慣れない二つの植物が登場します。ここで少しだけ掘り下げておくと、歌の情景がより鮮明になります。
あかしや(ニセアカシア)……歌詞の「あかしや」は、本来のアカシアではなく、ニセアカシア(ハリエンジュ)を指すのが通説です。北米原産のマメ科の落葉高木で、明治期に日本へ渡来し、成長が早く土をよく留めることから、街路樹や砂防林として各地に植えられました。とりわけ北海道では初夏に白い花房を垂らし、甘い香りを漂わせます。花は天ぷらにしたり、蜂蜜(はちみつ)の蜜源になったりと、暮らしにも身近な木です。
山査子(さんざし)……バラ科サンザシ属の落葉低木で、英名はホーソーン。中国原産で、江戸時代に薬用植物として日本に伝わりました。春に白やうすい紅色の花を咲かせ、秋には小さな赤い実をつけます。実は生薬や果実酒に使われ、ヨーロッパでは古くから庭木として親しまれてきました。しなやかに垂れる枝が、記憶の中の風景をやさしく縁取っています。
どちらも派手な木ではありませんが、季節の移ろいをそっと告げる植物です。白秋がこの二つを選んだことで、歌には初夏の光と、ほのかな懐かしさが宿っています。
北原白秋と山田耕筰「黄金コンビ」が残した童謡たち
「この道」を生んだ北原白秋と山田耕筰のコンビは、ほかにも数々の名曲を残しました。二人の作品には、言葉の美しさとメロディーの豊かさが見事に溶け合った、日本歌曲・童謡の傑作がそろっています。
代表的なのが、山田耕筰が自身のつらい少年時代を思い出して涙したという逸話で知られる「からたちの花」です。ほかにも、ロシア民謡と誤解されがちな「ペチカ」、中国の故事「守株待兎(しゅしゅたいと)」をもとにした教訓歌「待ちぼうけ」など、白秋の詩に耕筰が曲をつけた作品は今も広く愛されています。
「この道」を味わったあとは、同じ二人が生んだこれらの歌もあわせて聴くと、白秋と耕筰の世界がいっそう深く楽しめます。まずは、山田耕筰の実話エピソードで知られる一曲からどうぞ。
「この道」の意味をもっと知るQ&A
最後に、「この道」についてよくある疑問をQ&A形式でまとめておきます。
Q. 「この道」の「いつか来た道」とは、どこの道ですか?
一番・二番は北海道・札幌の道、三番・四番は白秋の故郷である九州(母の実家の熊本県南関町から柳川までの道)と考えられています。特定の一本の道というより、白秋の記憶の中で重なり合った複数の道が描かれています。
Q. 「白い時計台」はどこの時計台ですか?
札幌の時計台(旧札幌農学校演武場)です。1878年に建てられた白い洋風建築で、今も札幌のシンボルとして知られています。
Q. 「お母さま」とは白秋の実の母のことですか?
白秋自身の幼い日の記憶が投影されていると考えられ、母の実家(熊本県南関町)から柳川へと、母と馬車で通った道の思い出がもとになっているといわれます。
Q. 「あかしやの花」は本物のアカシアですか?
一般には、本来のアカシアではなくニセアカシア(ハリエンジュ)を指すとされています。北海道に多く植えられ、初夏に白い花を咲かせる木です。
Q. 詩と曲はいつ作られましたか?
詩は1926年(大正15年)に雑誌『赤い鳥』へ発表され、翌1927年に山田耕筰が曲をつけました。
まとめ|「この道」は北海道と故郷を結ぶ思い出の歌
「この道」は、北原白秋の詩に山田耕筰が曲をつけた、1926年から1927年にかけて生まれた童謡です。一番・二番では四十歳の白秋が旅した北海道・札幌の初夏(あかしやの花と白い時計台)が、三番・四番では幼い日に母と馬車で通った故郷の道が描かれています。
くり返される「いつか来た道」という言葉は、実際に通った道の記憶であると同時に、誰の心にもある懐かしさや既視感をすくい取っています。目の前の北海道の風景が、遠い日の母との思い出を呼び覚まし、二つの土地・二つの時間がひとつに溶け合っていく。それがこの歌の深い魅力です。
「あかしや」がニセアカシアであること、「山査子」がバラ科の木であること、「白い時計台」が札幌のシンボルであることなど、言葉の意味をひとつずつ知っていくと、聴き慣れたメロディーの奥行きがぐっと増します。
今度この歌を口ずさむときは、白秋が見た北国の並木道と、母と通った故郷の道を思い描いてみてください。あなた自身の「いつか来た道」も、きっとそっと重なってくるはずです。


