「赤い靴 はいてた 女の子、異人さんに つれられて 行っちゃった」。誰もが一度は耳にしたことのある童謡『赤い靴(あかいくつ)』。やさしいメロディーの奥に、どこか物悲しく、少しこわいような響きを感じたことはないでしょうか。
この歌には「外国人にさらわれた」「人身売買の歌だ」といった怖い噂がついてまわります。その一方で、モデルになったとされる実在の女の子「きみちゃん」の、あまりにも切ない生涯も語り継がれてきました。
この記事では、『赤い靴』の歌詞全文とその意味をやさしく解説したうえで、人身売買という俗説の真相、モデルの少女きみちゃんの実話、そして「モデルなど実在しなかった」という異説まで、信頼できる資料をもとにバランスよく整理していきます。

目次
赤い靴(童謡)の歌詞と作詞・作曲|野口雨情と本居長世
『赤い靴』は、作詞が野口雨情(のぐち うじょう)、作曲が本居長世(もとおり ながよ)による童謡です。雨情の詩は、1921年(大正10年)12月に児童雑誌「小学女生」に発表され、翌1922年(大正11年)に本居長世が曲をつけて完成しました。
作詞の野口雨情は、『しゃぼん玉』『七つの子』などでも知られる、大正から昭和にかけての代表的な童謡詩人です。作曲の本居長世は、江戸時代の国学者・本居宣長(もとおり のりなが)の子孫(6代目にあたるといわれます)で、『七つの子』『十五夜お月さん』なども手がけた作曲家でした。二人はコンビで数々の名作童謡を生み出しています。
まずは歌詞の全文を見てみましょう。全部で4番まであります。
一番
赤い靴(くつ) はいてた 女(おんな)の子(こ)
異人(いじん)さんに つれられて 行(い)っちゃった
二番
横浜(よこはま)の 埠頭(はとば)から 船(ふね)に乗(の)って
異人さんに つれられて 行っちゃった
三番
今(いま)では 青(あお)い目(め)に なっちゃって
異人さんの お国(くに)に いるんだろう
四番
赤い靴 見(み)るたび 考(かんが)える
異人さんに 逢(あ)うたび 考える
短くて素朴な言葉が並んでいますが、「異人さんに つれられて 行っちゃった」という一行が、この歌に独特の切なさと不安を与えています。次の章で、一つひとつの言葉の意味をていねいに読み解いていきます。
「赤い靴」の歌詞の意味をやさしく解説|「異人さん」「青い目」とは
『赤い靴』の歌詞は、一人の女の子が外国人に連れられて外国へ行ってしまい、残された人がその子を想い続ける、という内容です。言葉づかいが古いので、キーワードごとに意味を確認しましょう。
「異人さん」とは外国人のこと
「異人(いじん)さん」とは、明治から大正のころに使われた言葉で、外国人、とくに欧米の人を親しみをこめて呼んだ言い方です。差別的な意味あいではなく、当時の子どもたちの目線でとらえた「見なれない外国の人」というニュアンスです。
三番の「青い目に なっちゃって」も、女の子が青い目に変わったという意味ではありません。外国で暮らすうちに、すっかり外国の子のようになってしまっただろう、という子どもらしい想像を表した表現です。
「横浜の埠頭」を「はとば」と読む理由
二番の「横浜の 埠頭から 船に乗って」は、女の子が横浜港から船に乗って旅立った情景です。ここで「埠頭」と書いて「はとば」と読ませているのが、この歌の面白いところです。
「埠頭」は本来「ふとう」と読み、船をつける港の設備を指します。雨情はそこに「波止場(はとば)」の読みを当て字として重ねることで、船着き場のもの悲しい雰囲気を、耳になじむやわらかい響きで表現しました。野口雨情記念館の資料でも「埠頭(はとば)」とルビが確認できます。
くり返される「考える」に込められた想い
四番の「赤い靴 見るたび 考える、異人さんに 逢うたび 考える」は、赤い靴を見るたび、外国人に出会うたびに、あの子のことを思い出してしまう、という歌です。誰が考えているのかは歌詞に書かれていませんが、旅立った子を見送った側の、断ち切れない想いがにじみます。

人身売買・誘拐の歌という噂(俗説)の真相
『赤い靴』には、昔から「本当は怖い歌だ」という噂がつきまといます。代表的なのが次のような説です。
- 人身売買説:貧しさから、女の子が外国人に売られてしまった歌だ
- 誘拐説:「異人さんに つれられて 行っちゃった」は、外国人による連れ去りを歌っている
たしかに歌詞だけを読むと、外国人に連れ去られた女の子を想像してしまいます。「つれられて 行っちゃった」という言い方も、どこか不穏に感じられるかもしれません。
しかし、後で述べるモデルの少女の話をふまえると、これらは誤解にもとづく俗説だと考えられています。もっとも有力とされる説では、女の子は売られたのでも、さらわれたのでもありません。貧しさのなかで母が娘の幸せを願って手放し、外国へ渡るはずが病で叶わず、日本国内で幼くして亡くなった、というのが実際の物語だとされています。

赤い靴のモデルは実在した?女の子「きみちゃん」の悲しい実話

『赤い靴』には、モデルになったとされる実在の少女がいます。「きみちゃん」と呼ばれる、佐野きみ(さの きみ)という女の子です。もっとも広く知られている説(定説)にそって、その短い生涯をたどってみましょう。
母・岩崎かよと、私生児として生まれたきみ
きみは1902年(明治35年)7月15日、静岡県有渡郡不二見村(現在の静岡市清水区宮加三)で、母・岩崎かよのもとに生まれました。かよはまだ若く、父親のわからない私生児としてきみを産んだため、生活はたいへん苦しいものでした。
母子は新しい暮らしを求めて北海道へ渡ります。留寿都村(るすつむら)の公式サイトによれば、二人は現在の留寿都村泉川地区にあった「平民社農場」に入植したとされています。しかし北海道の開拓生活はきびしく、幼い子を連れて働き続けることは困難でした。
宣教師夫妻に託され、しかし渡米は叶わず
やがてかよは、娘のきみをアメリカ人宣教師のヒューエット夫妻の養女に出す決断をします。開拓地に子を残すよりも、宣教師のもとで育ててもらうほうが幸せになれると信じたのです。母は、いつかきみが夫妻とともにアメリカへ渡り、豊かに暮らすものと思っていました。
ところが、きみは結核にかかってしまいます。当時の結核は治療が難しい重い病でした。伝染をおそれ、また長い船旅に耐えられないと判断され、きみは夫妻とともに渡米することができませんでした。
行き場を失ったきみは、東京・麻布の孤児院「永坂孤女院(ながさかこじょいん)」に預けられます。そして母に再び会うことも、海を渡ることもないまま、1911年(明治44年)9月15日、わずか9歳でこの世を去りました。遺骨は東京・青山墓地に葬られたと伝えられています。
母は娘の死を知らなかった
もっとも切ないのは、母・かよが娘の本当の運命を最後まで知らなかったことです。かよは、きみが宣教師夫妻とともにアメリカで元気に暮らしていると信じ続けたまま、その生涯を終えたとされています。
「異人さんに つれられて 行っちゃった」「異人さんの お国に いるんだろう」という歌詞は、まさに母が思い描いていた娘の姿そのものでした。実際にはアメリカへ渡れず、日本で亡くなっていた。この事実を重ねると、歌の切なさがいっそう深く胸にせまってきます。
同じ野口雨情には、亡くなった子への想いが投影されたともいわれる童謡があります。あわせて読むと、雨情の描く「悲しみ」の質がよくわかります。
野口雨情はなぜこの詩を書いたのか|物語を知った経緯
では、静岡で生まれ東京で亡くなった一人の少女の物語を、なぜ茨城出身の野口雨情が詩にできたのでしょうか。そのカギは、雨情の北海道時代にあります。
雨情は1907年(明治40年)ごろ、札幌の新聞社「北鳴新報社(ほくめいしんぽうしゃ)」に勤めていました。このとき同僚となったのが、きみの母・かよの再婚相手である鈴木志郎(すずき しろう)でした。雨情は志郎やかよと親交を深めるなかで、手放さざるをえなかった娘きみの話を聞かされます。
母の胸のうちにあった娘への想いは、雨情の心に深く残りました。野口雨情記念館に伝わる雨情自身の解説によれば、「赤い靴」や「青い目になってしまっただろう」といった言葉のかげには、旅立った子への深い同情がこめられているといいます。母の祈りと、詩人のまなざしが重なって、この名作が生まれたのです。
赤い靴のモデルは実在しない?「実在説」と「創作説」の両論
ここまで紹介したきみちゃんの物語は、もっとも広く知られている「定説」です。ただし、この歌をめぐっては「モデルなど実在しなかった」という異説もあり、専門家の間でも見解が分かれています。フェアに両論を見ておきましょう。
実在説(定説)を広めたテレビ記者・菊地寛
きみちゃんの物語が広く知られるようになったきっかけは、1973年(昭和48年)にさかのぼります。きみの異父妹にあたる岡そのが、新聞に「私の姉は『赤い靴』の女の子です」という趣旨の投書をしました。
これに着目した北海道テレビ放送(HTB)の記者・菊地寛(きくち ひろし)が、約5年をかけて調査を重ねます。そして1978年にドキュメンタリーが放送され、翌1979年には著書『赤い靴はいてた女の子』が刊行されて、きみ=モデル説が定説として定着しました。なお、この菊地寛は、小説家として有名な菊池寛(きくち かん)とは別の人物です(名字の漢字も「菊地」と「菊池」で異なります)。
創作説(異説)も根強い
一方で、この定説には根拠が乏しいとする批判もあります。作家の阿井渉介(あい しょうすけ)は、2007年の著書『捏像(ねつぞう) はいてなかった赤い靴』で、ヒューエット夫妻ときみに接点を示す確かな証拠がないことなどを指摘し、定説に疑問を投げかけました。
さらに、野口雨情の実の息子である野口存彌(のぐち まさや)は、「父の童謡に、特定の個人をうたったものはない」という趣旨の見解を示しています。作詞家の永六輔が、歌詞の「赤」を社会主義の比喩と結びつけて解釈したという話も伝わります。

全国の「赤い靴」きみちゃん像の場所一覧

『赤い靴』にちなんだ少女の像は、きみちゃんゆかりの地を中心に全国各地へ広がっています。旅先で見かけたら、この歌の物語を思い出してみてください。おもな像を年代順に並べます。
- 横浜市・山下公園「赤い靴はいてた女の子」像(1979年):もっとも有名な像。特定のモデルではなく、雨情の詩のイメージをもとに作られました。海を見つめて座る姿が印象的です。
- 静岡市・日本平「母子像」(1986年):きみの生まれ故郷にあたる静岡に建てられた、母と子をモチーフにした像です。
- 東京都・麻布十番「きみちゃん像」(1989年):きみが息を引き取った孤児院に近い麻布十番に立つ像で、多くの人が花を手向けます。
- 北海道・留寿都村「母思像(ぼしぞう)」(1991年):母子が開拓に入った土地に、母を想う気持ちをこめて建てられました。
- 北海道・小樽市「赤い靴 親子の像」(2007年):母子がゆかりをもつ小樽の港近くにあります。
- 北海道・函館市「赤い靴 少女像」(2009年):母子が北海道での暮らしを始めた函館に建てられました。
- 青森県・鰺ヶ沢町「赤い靴 親子像」(2010年):津軽地方にゆかりの伝承をもとに設置された像です。
こうして各地に像が建てられていること自体が、この歌が長く愛され、多くの人の心を動かしてきた何よりの証しといえるでしょう。
「赤い靴」にまつわる豆知識Q&A
最後に、知っておくと『赤い靴』がもっと味わい深くなる豆知識を、Q&A形式でまとめます。
Q. なぜ「埠頭」を「はとば」と読むの?
A. 野口雨情による当て字です。「埠頭」は本来「ふとう」ですが、船着き場を意味する「波止場(はとば)」の読みを当てることで、港のもの悲しい情景をやわらかい響きで表現しました。歌詞の味わいを生む、雨情らしい言葉づかいです。
Q. 「異人さん」は差別的な言葉ではないの?
A. 当時としては、外国人(とくに欧米人)を子ども目線で親しみをこめて呼んだ言葉です。現代ではあまり使われませんが、歌の世界では、見知らぬ外国への距離感やあこがれを素朴に伝えるはたらきをしています。
Q. 作曲した本居長世ってどんな人?
A. 国学者・本居宣長の子孫にあたる作曲家で、『七つの子』『十五夜お月さん』など、野口雨情とのコンビで多くの童謡を残しました。西洋音楽の素養を生かしつつ、日本語の抑揚を大切にした旋律づくりで知られます。
Q. 『赤い靴』は名曲として公式に認められている?
A. はい。『赤い靴』は、文化庁と日本PTA全国協議会が2007年に発表した「日本の歌百選」にも選ばれています。世代をこえて歌い継がれる、日本を代表する童謡のひとつです。
まとめ|「赤い靴」の歌詞の意味と真相
童謡『赤い靴』は、赤い靴をはいた女の子が異人さん(外国人)に連れられて外国へ行ってしまい、残された人がその子を想い続ける、という切ない歌でした。
「人身売買」「誘拐」といった怖い噂は、歌詞だけを読んだことから生まれた俗説と考えられています。もっとも有力な説では、モデルの少女きみちゃんは、貧しさのなかで母に手放され、アメリカへ渡るはずが結核で叶わず、9歳で亡くなった実在の子だとされています。
一方で、「モデルなど実在しなかった」という創作説も根強く、真相は今も一つに定まっていません。だからこそ、両方の説を知ったうえでこの歌に耳をかたむけると、言葉のひとつひとつがより深く響いてきます。


